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アダム・スミスの「道徳感情論」②

前回までの記事はこちら

アダム・スミスはいつ生まれてどんな人だったか? – 脳内ライブラリアン

アダム・スミスの「道徳感情論」① – 脳内ライブラリアン

 

今回の記事では道徳感情論の話と

これが見えざる手と何の関連してくるの?という話を書きます。

 

前回の記事では

人あるいは自分の行為や感情を評価するのに

社会経験からつくられた「胸中の公平な観察者」の視点を使っている

ということを述べました。

 

ただこの「胸中の公平な観察者」と「世間」の評価に

ずれが生じることがあります。これが不規則性という概念です。

 

不規則性の問題

アダム・スミスの言う不規則性は以下のようなケースで生じます。

①「意図はないにも関わらず他人に有益もしくは有害な結果を生み出した」

②「ある行為によって、たまたま意図した通りの結果とならなかった」

 

前回の注意しているにも関わらず自動車事故を起こしてしまったひとは

①に当てはまりますね。

 

ここで重要なのは「胸中の公平な観察者」は意図を評価すること。

それに対して「世間」は結果を重視する傾向があること。

 

②の例も世の中に多々ありますが、例えば

大学受験をする教え子を家庭教師でみていた、とするときに

自分は当然合格させようと思って指導するわけですが

受かることもあれば落ちることもあります。

 

「世間(教え子の親など)」の評価はどちらが良いでしょうか。

 

当然受かったときのほうが良いでしょう。

こうした不規則性による評価のずれを行為者(評価される人)は

どうとらえるか。

 

賢人と弱い人

アダム・スミスは行為者が「賢人」か「弱い人」かによって

重視する評価が異なるとしています。

 

賢人は胸中の公平な観察者(=意図)を重視し

弱い人は世間の評価(=結果)を重視します。

 

これは人によって二つに分かれるということではなく

その人の中でもそれぞれ「賢人」の部分と「弱い人」の部分がある

としています。

 

また、これは賢人が全て良いというわけでもありません。

意図のみを重視すれば、何か悪意あることを

意図しただけで罰せられることになりますし

結果を罰しないようであれば過失が許されてしまい

注意を払うことが不足します。

 

ただ賢人であることも当然必要です。

アダム・スミスは胸中の公平な観察者を通して判断することを

「一般的諸規則」と呼び、それに従おうとする感覚を「義務の感覚」として

人間生活において最大の重要性をもつ原理、としています。

 

それに従うことで得られるのは

いわゆる「良心の呵責」がない状況であり

心の平静と幸福感、満足感である、と考えられます。

 

で、結局見えざる手との関係は?

最初の記事で「見えざる手」は冷たい市場主義の話ではない、と

書きましたが結局この道徳感情論の話がどう関係してくるのか。

つなげていきます。

 

先ほど述べた「賢人」と「弱い人」の

どちらが経済を発展させるでしょうか。

 

アダム・スミスは「弱い人」がより経済を発展させると考えました。

 

「賢人」は一般的諸規則を優先するため世間の評価を必要以上に

気にする必要もなく、自身の満足が得られていれば幸福であるため

野心をもって富を拡大させようとする必要がないんですね。

 

それに対して「弱い人」は富や地位を求める野心があるため

結果として仕事を拡大し、人を雇い入れ、経済を発展させていきます。

 

これは分業に関して述べた「国富論」の箇所をみてもわかると思います。

われわれが食事ができると思うのは、肉屋や酒屋やパン屋の慈悲心に期待するからではなく、彼ら自身の利益に対する彼らの関心に期待するからである。われわれが呼びかけるのは、彼らの人間愛に対してではなく、自愛心に対してであり、われわれが彼らに語りかけるのは、われわれ自身の必要についてではなく、彼らの利益についてである。(「国富論」一編二章)

 

この「弱い人」が進む道を「富への道」と呼び

「賢人」が一般的諸規則を身に着け

称賛される道を「徳への道」と言いましたが

アダム・スミスは2つが両立しうることを示しています。

 

特に下流・中流階級においてはこの2つの方向性が一致しやすいと述べました。

この階級の人は財産を築いていく上で

周囲の人との関係を良好に保つ必要がありますし

そのためには一般的諸規則に従うことは必要になってくるからです。

 

逆に上流階級(当時でいうと王侯・貴族)は

徳への道がなくても権力である程度周囲を黙らせることができるため

富への道のみを歩む堕落がみられるとしています。

 

 

上述の通り「弱い人」が市場で「見えざる手」に従い

競争をすることで、より良いサービスや製品を安価にできるようにし

経済を発展させます。

 

ただし、ここには「徳への道=賢人」が両立する必要があり

競争相手を邪魔したり、だましたり、市場を独占したりすることは

フェアプレイの精神に反しており正しい方向への発展が望めない、としています。

 

つまり「見えざる手」の機能も発展には重要ですが

全てその自動作用に任せればよいのではなく

その前提条件として「賢人」としての一般的諸規則や義務の感覚を

備えてなくてはならないと考えられます。

 

現在でもよく引用されるアダム・スミス

今でも様々な本で引用されるアダム・スミスですが

そこで人間の本質とされる「共感能力」や「幸福感の定義」は

現代でも通じる、というか現代の科学でむしろ証明されつつあると思います。

 

たまたま別の本を読んでいたときに紹介で出てきた

経済産業研究所の論文ですが、日本人の所得と幸福感の関係について

一定の所得以上からは幸福感がさほど増えないことを示しています。

(同様の研究は色々ニュースなどで見たことある気がしますが)

RIETI – 幸福感と自己決定―日本における実証研究

 

アダム・スミスは先ほどの理論の中で

「弱い人」が目指す「富への道」は幸福につながるものではなく

一定以上の所得があれば、それ以上稼ぐことで

幸福を求めようとしても求められない、ということを述べています。

これがデータ的にも実証されたということになります。

論文中にもアダム・スミスの文が引用されています。

 

こういったところでつながりを見出せることが

過去の哲学を学ぶことの面白さだなと感じつつ

また次は誰かに焦点をあてて読んでみようと思います。

 

参考文献:

 

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