マルティン・ハイデガーの『存在と時間』に入門してみる⑤

ハイデガーの『存在と時間』について、内容をさらに進めていきます。今回は本来的/非本来的存在・頽落についてとそれを構成する気分・了解・語りについてです。

 

目次:

 

前回までの記事はこちら↓

マルティン・ハイデガーの『存在と時間』に入門してみる④ – 脳内ライブラリアン

マルティン・ハイデガーの『存在と時間』に入門してみる③ – 脳内ライブラリアン

マルティン・ハイデガーの『存在と時間』に入門してみる② – 脳内ライブラリアン

マルティン・ハイデガーの『存在と時間』に入門してみる① – 脳内ライブラリアン

 

内存在の構成を詳しくみていく

これまでのところ現存在とその環境世界を中心に、存在とは何かを説明してきましたが、ハイデガーはさらに詳しく人間の存在の仕方(=内存在と呼ぶ)を見ていきます。

 

今まで見てきたように現存在は事物に対する配慮的気遣いと他人に対する顧慮的気遣いによる関係性を周りと構築していました。いずれも気遣いと呼ばれるものであり、この気遣いが存在の根本的な契機になっているとしています。

 

内存在のあり方について繰り返しハイデガーが強調するのは今までによく言われたきたような、「主観・客観の視点」から離れることです。この辺はクドいぐらいに述べられます。

 

内=存在とは、「世界」の客体的存在によってひきおこされ、あるいは少なくとも起発された、客体的主観の性状ではないということ、むしろ内=存在とは、この存在者そのものの本質的なありさまであるということであった。(*1 p.287)

 

さらには主観と客観の中間という考え方すらも、主観と客観を暗黙的に想定してしまうのでやめてくれ、と言っています。

 

この中間がそこに中間として「存在」しているふたつの存在者について、暗黙のうちに、存在論的な見積もりを立ててしまうからである。(*1 p.288)

 

こうした主観・客観とは離れた形で構成される気遣いと内存在が、どのように構築されているのかをさらに深めたところで描出されるのが、気分・了解・語りの3要素です。

 

「気分・了解・語り」とは

①気分

まずハイデガーは気分というものを気遣いの根源的な契機として挙げます。ここでいう気分とは普段感じるような「楽しい」「なんとなく落ち着かない」「不安」「怖い」などなどよく言われるような「気持ち」と同じ意味の言葉です。

 

こうした気持ちによって物や人への関わり方が変わるというのは確かに納得できることかと思います。気分が良ければある人にも寛容になれたり、良い目で見ることもできたりしますが、自分がすごく塞ぎ込んでいる時や落ち込んでいる時はどんな物や人も良い方向に考えられなくなったりします。

 

知識や意志によってこの気分を制したりすることもできるだろうとハイデガーは述べますが、そうであっても、その意志よりも気分が先に出現してくるという意味で、気分の方がより根源的な物だと述べます。確かに、嫌なことがあったら気分を変えようと気晴らしに向かったりしますが、嫌なことがあった時点で感じた不快な気分というのはすでに感じてしまっているわけです。気分よりもさらに「なぜその気分を感じるのか」を遡って考えることはできず、ここが根源を遡る上での底板になるのでしょう。

 

また、気分はどうにも変えられないことから、これを被投性と呼び、人間の認識や意志では変えようのないものとしています。そうは言っても、自分の行動で気分は変えられるんじゃないかと思いますが、実はそうではありません。

 

例えば、落ち込んでいる時に、友達と遊んだり、テレビや映画、ネットを見たり、気晴らしによって気分を変えようとします。これは、元々あった気分から回避する目的で別の気分を持ってくるわけです。元々最初に、意志では変えられない気分があるからこそ、回避しようとするわけなので、結局スタート地点はどうにもならないところから始まっています。

 

「何かを認識することで気分が生まれる」のではなく、この“気分“の方を根源に据えたところが、それまでの直近の哲学と異なるハイデガーのポイントとなります。

 

②了解

続いて、この気分と表裏一体の関係で語られるのが「了解」です。「了解」というのは、「気分」から「了解」していくのですが、これもまたわかりづらい話なので、例を作ってみます。

 

例えば、ふと朝「何となく頭が重いなあ」と思ったとします。そうすると「体調が悪いのかな」とか「天気が悪いせいかな」とか「今日の仕事が憂鬱だからかな」と色々な可能性があると思います。ある気分から広がる可能性を知っていることを「了解」といいます。

 

これはいろんな可能性を思い浮かべるのわけではなく、下図のような感じであらかじめ自分の中で作られているものです。*2の例を借りれば、「鳥」を見た時に「飛ぶ」「餌を食べる」「木に止まる」など様々な可能性をひっくるめた上で「鳥」を見るとき、「鳥」の存在を了解している、と言えます。実際にそのような様態をしていなくても、自分が「鳥だ」としてみる時点で先程挙げたような様々な可能性を鳥の中にみるわけです。

 

こうした可能性が広がっていくことをハイデガーは企投と名付けています。企投というと「投げる」ような雰囲気があって能動的かのように聞こえますが、そもそも了解の時点でその可能性はほとんどあらかじめ思い描かれてしまっているもので、自分が決めていくものと言うわけではありません。*2によれば、ハイデガーはその活動の後期になると、この被投・企投といった単語を放棄しており、必ずしも適切なニュアンスではなかったようです。

 

③語り

気分、了解と合わせて内存在の根源となっているのは「語り」です。了解において下図される様々な可能性は、意義となり、言葉として言い表されます。例えば先ほどの例で言えば「飛ぶ」「餌を食べる」「木に止まる」と言った可能性をひっくるめたものを鳥と言い表しています。初めに言葉があって当てはめられるのではなく、了解による意義全体に言葉が当てはめられるわけです。

 

こうして言葉は了解の意義全体を切り取って、開かれる場となります。このことから「気分」「了解」と並んで同じくらいに根源的な意味を「語り」がもつということになります。言語の本質についてハイデガーは以下のように述べています。

 

「言語の本質はむしろ、言語のなかで人間がそもそもはじめて存在者へと乗り出すことのうちにあり」、「言語のうちで存在の根源的露見と示現(Offenbarung)が起こる」(*2より引用)

 

もう少しわかりやすい表現では次のようにも述べています。

 

「人間が言語をもつのではなく、言語が人間を『もつ』」(*2より引用)

 

また、共現存在との語りの場合も同様に、「了解」が前提となっており、「了解」を分かち合った状態で、話をしていきます。例えば日常の会話ではその話題の中心となっているものを、述べずに会話することがあります。宿題がでた翌日に友人と会話したとしましょう。すると

「(宿題は)もうやった?」

「やったよ」

というように、話題の中心が省略されることはよくあります。これはお互いに「了解」を分かち合っているからこそできることです。

 

本来性と非本来性

ハイデガーは以上3つの中の了解に触れるところで、世界の側から自己を了解することを非本来的な存在のあり方、自己の側から自己を了解することを本来的な存在のあり方と呼んでいます。

 

すなわち、了解が主として世界の開示態に身をおき、すなわち現存在がさしあたってたいてい自分の世界の方から自己を了解するという可能性がある。その反対に、了解が主としておのれの存在の主旨に身を投じ、すなわち現存在が自己自身として実存するという可能性がある。言いかえれば、了解は(後者のように)本来的な、すなわちおのれの自己そのものから発源する了解であるか、それとも(前者のように)非本来的な了解である。(*2『存在と時間』第三一節、p.316)

 

世界の方から決められた自己というのは、前回の記事で説明した「ひと」のような存在の仕方です。標準性を求め、平均化・均等化された存在です。そこで了解は世界の方から決められてしまいます。ハイデガーはこうした存在の仕方を非本来的と呼び、そうした状態を頽落と呼んでいます。

 

他方、自分自身が自分の在り方を決めるような存在の仕方を本来的なあり方としています。絶えず自分の存在を決めていく意味で大変な重荷であり、たいていの人は日常的にはそのようなあり方をしていないとしています。

 

注意しなければいけないのは、「本来的」「非本来的」なあり方というのは道徳的に「良い」「悪い」に対応する概念ではないという点です(どうしてもそう見えますけど)。ハイデガーはこの点を繰り返し強調し、「歴史が進んだら本来的になっていく」のように進歩する可能性も否定します。そういうものではなく、あくまでそれぞれ世界内存在のあり方の一つであると説明します。

 

「空談」「好奇心」「曖昧さ」とは

非本来的な・日常的な存在のあり方は前回の記事で書いた「ひと(世人)」というあり方でした。その「ひと」がとるような状態の例として「空談」「好奇心」「曖昧さ」の三つが出されます。

 

①空談

「空談」は上で述べたように話題に関する「了解」がないまま、うわべだけの情報をやり取りしちえるような会話を指します。平均的な理解をもとに、分かったようなつもりで、話を広げていきますが、実際は本当に理解はしていません。哲学書の解説のみを読んで、分かったようなつもりになり、その話を説明するようなもの(この記事のことかもしれない、、、汗)もそうだと言えるでしょう。また科学的な事柄も同様で、〜の薬が〜の疾患に良いという情報をよく調べもせずに鵜呑みにして、他の人や患者さんに話していく、というのも空談の例になるかと思います。

 

②好奇心

「好奇心」は何かの目的がなく、ただ見たいものを見ることが目的になってしまっている状態のことを指します。本来の「了解」は自分の周りの世界に関わる可能性をめがけていくようなもの(企投)でしたが、それを失っている状態です。ネットのニュースサイトの記事なんかを見ると顕著なように思います。ただ不安や奇抜さ、怒りやエロなどをかき立てるような見出しで、好奇心を起こさせ、ひたすら見るけれど、自分の世界と関連性を見出せないものにあふれています。

 

③曖昧さ

「曖昧さ」はこうした「了解」が欠如した状態において、自分が本当に何が分かっていて、何が分かっていないか、よくわからなくなってしまい、「本来的なもの」を見失ってしまっていることを指します。

 

こうした内容は大衆社会批判ととても相性が良いのですが、繰り返しますと、あくまでハイデガーは道徳的な基準ではないと述べており、平均的・日常的なあり方はむしろこっちだとしています。存在の構造を明らかにするのが目的であって、道徳を語りたいわけではないということなのでしょう。

 

ただ、個人的には、よく批判されているように、この本来性・非本来性の区別が明確にされるものなのかというと必ずしもそうではないと思います。ただの好奇心で見ていたものが、いつの間にか自分の本来的なあり方に関わっていくこともあるように思いますし、空談のようなコミュニケーションも他人との関わりでは大事なことも多いと思います。1か0で区切れるようなものではないように思いますね。

 

参考文献:

*1『存在と時間』 

今回は二八節〜三八節あたりでした。

*2『ハイデガー「存在と時間」入門』

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