『これからの正義の話をしよう』で一時期日本でもしばらく話題になったマイケル・サンデルの新作『実力も運のうち 能力主義は正義か?』を読みました。
アメリカの政治・教育の話が主なので、その辺は日本人にとって理解しにくい部分もありますが、トランプ政権がなぜ誕生したのか、という話を皮切りに“能力主義”の問題点について分かりやすい例と実際のデータをたくみに用いながら指摘していきます。
読んでみると非常にハッとさせられる部分のある良書で、いつの間にか自分も“能力主義“の価値観に染まりきっているところがあることに気付かされます。それが全ていけないわけではないのですが、改めてその考えを見直してみる必要はありそうです。
ここで指摘されている“能力主義”とは何か、について要約しつつ、医療従事者としての視点からいくつかピックアップして内容を紹介してみたいと思います。
目次:
“能力主義“とは何か
まず本書で問われている“能力主義“ということはどういうことなのか。
本書によれば元々はマイケル・ヤングというイギリスの社会学者が『The Rise of the Meritocracy(=能力主義)』*1という本に書いた用語であるとしています。
このマイケル・ヤングは以下の問いを提起しています。
いつの日か階級間の障壁が乗り越えられて、誰もが自分自身の能力だけに基づいて出世する真に平等な機会を手にしたとしたら何が起こるだろうか?(『実力も運のうち 能力主義は正義か?』より引用)
「自分の能力だけに基づいて出世ができる」というのは本来望ましい状態であるはずです。
日本で言えば数年前に東京医科大学の受験で女子受験者を減点していた措置が問題となったことがありました。
東京医大、女子受験者を一律減点 男女数を操作か: 日本経済新聞
同じ能力(つまり、テストの点数)をもつ人が一方では合格し、一方では落とされるというのは通常誰もが納得できないことであると思いますし、これが問題であるところは間違い無いです。
では、この機会が平等になった後で生じる問題は何なのか。
本書で問題提起されていることは、ざっくりといえば、機会が平等になった上で、能力によって出世や報酬が得られることがあまりにも当然になりすぎると
「万人に機会は与えられているのだから、今の自分の状態は自分の責任だし、自分が頑張ったかどうかの問題だよ」
という思考が過度に正当化されしまうということです。
つまり
「高い地位、給料」=「頑張った証拠」
「低い地位、給料」=「頑張ってない証拠」
というレッテル貼りが促進されます。
さて、果たしてこれが本当かと本書は問うています。
アメリカのトップ大学であるアイビーリーグに含まれる大学に入学できる学生と所得との関係などを例に出しながら、いかに経済的要因が高い地位に結びつきやすいかを鋭く指摘しています。
そして、そうした要因で高い地位や給料が得られているにもかかわらず、それが自覚されずに、「高い地位にいる・良い大学に入っている=自分が頑張った証拠で、道徳的にも正しい」という意識が強まっていること、逆に「低い地位や大学に入れなかった人たち=頑張っていない、道徳的に間違っている」かのような屈辱を受けていること、が大きな問題となっています。
例としてアメリカの大統領選の動きが本書では主に説明されています。中道派リベラルのエリート(例としてオバマ大統領、ヒラリー・クリントン)が「アメリカは機会が平等であり、自分の努力次第で出世できる」という思想を語ることでこうした屈辱感をさらに煽ってしまったのに対し、トランプがアメリカの大統領となれたのはこうした屈辱を聞き入れているから、とされています。
さて、他にも本書でみられる能力主義の例について、医療従事者の側から見て、興味深かった点をピックアップしてみます。
病気になることはどこまでが自己責任か?
糖尿病、高血圧、脂質異常症などは生活習慣病というネーミングをされており、生活習慣が原因である疾患という意味を強く持っています。そこには、自分で決めるライフスタイル次第という意味も強く結びついていることが多いように感じます。また、喫煙やアルコールといった害のある習慣も、同様でしょうか。
そのためか、時折周囲の医療従事者や患者さんの家族に一部で以下のような言動がみられることがあります。
「糖尿病を放置したのだから、こうなったのは自己責任だよね」
「タバコをやめられないんだから悪い」
ある種その通りだと思う面はありますし、病気になっても懲りずに全く改善がない人に対してはどうしてこうなのだろうと思うこともあります。
では、こういった病気になる人というのは全部自分の責任なのでしょうか。
先程と同様に「健康=頑張った証拠」と捉えた場合に、能力と同じことが言えてしまう場合があります。本書中では、オバマケアに反対する共和党下院議員の以下のような発言を引用しています。
「彼らは健康であり、自分の体を保つためにやるべきことをやってきました。ところが現状では、これらの人びと、つまり物事を正しく行なってきた人びとが、自分たちの支払うコストがうなぎ登りに上昇しているのを目の当たりにしているのです」(本書より引用)
ここでは「健康な人=正しい行いをしている人」というレッテルが貼られ、同時に「不健康な人=間違った行いをしている人」と道徳的な決めつけが行われています。
実際には、健康の維持に社会経済的な要因も大きいことも繰り返し報告されています。普段から脳梗塞の領域でsocioeconomic statusと発症率の関連を調べた研究も多くみますし、一般書籍では少し前に読んだ『経済政策で人は死ぬか』*2でも詳しく述べられています。この本では不況とその経済対策の方法で打撃が多かったものへのセーフティネットがうまく作用しているかどうかで、健康状態が大きく変わることを主張しています。現在の日本でもコロナウイルスの影響で自殺者が増えている(特に若年)ことは、“健康=自己責任“ではない影響の例の一つではないでしょうか。
医師は得てしてそれなりに良い環境で育っている人も多く(自分もそうだと思います)、生活習慣に関して注意をするだけの余裕があることが多いので、こうした病気になることも少ないとは思います。そのためどうしようもなく生活習慣を改善できない社会的な状況を想像する力に欠ける人がいるのは良くないのではないか、と思っています。
まあ、医師も医師でストレスや過重労働で酒浸りになったり、食生活・睡眠が乱れることもあるわけですが、、、。
知識がないから病気になる?
生活習慣病=自己責任という発想で考えた時、知識がないから病気になるという点が強調される場合があります。
確かに患者教育のようにどういう生活習慣が問題なのか知識をつけることは一つの解決策だと思います。
自分もそう思っていましたが、本書で指摘されているのは「知識があれば、同じ意見になるわけではない」ということです。
本書ではテクノクラート(技術官僚)は大抵この「知識があれば正しい意見が導かれる」という奢りに陥りがちだと批判されています。
本書内で頻出するテクノクラート(technocrat)は定義は以下のようなものです。
Technocrat
an expert in science or technology who has a lot of power in or influence with the government or industry
(Cambridge Dictionary | English Dictionary, Translations & Thesaurusより引用)
要するに科学技術の専門家で政府に影響力を持った人ということですね。
本書で引用されているオバマ大統領がグーグルの従業員を相手に講演した内容を見ると、テクノクラートが持っているのは、どのようなビジョンなのかが明白に分かります。
主として人びとがー間違った情報を知らされているだけのことです。あるいは、人びとは忙しすぎます、子供を学校へ送ろうとしています、働いてもいます、十分な情報を手にしていません、つまり、世の中のあらゆる情報を選別する専門家ではありません。こうして、われわれの政治的プロセスは歪められてしまうのです。(本書より引用)
これは一見その通りだと思う部分もあるのですが、正しい知識を与えることで正しい意見に目覚めるとは限らないように思います。本書内の例では気候変動について「誇張されているかどうか」などの世論調査をしたところ、アメリカでは共和党・民主党支持者それぞれで高卒者と大卒者の意見を見た時、大卒者の方がむしろ意見の党派間のギャップが大きいという結果が出ていました。大卒者が“正しい知識“なるものを受けている前提になりますが、教育水準が高くても意見が一致するようになるわけではない一つの例になるでしょう。
健康問題も前述したように、知識を十分に持っているはずの医師が生活習慣病にかからないかと言われるとそうではないわけで、そういった病気がある人、あるいはそういった病気を放置している人に対しても、勝手な道徳的判断はせず、なぜそうなったのかその背景を考えてみる必要があるように思います。
不正をするほどの能力への渇望
本書では冒頭で有名私立大学の入学に対する不正がいくつも述べられています。アメリカでもそういった大学受験に対する非常に高額な斡旋業があったとは知りませんでした。合格させるための金額も数十万ドル〜120万ドルまでとんでもない金が動いています。それほどまでに、学歴という業績を得ることが重要ということなのでしょう。
業績を得ることで自尊心が大きく満たされ、業績がないと自尊心を大きく傷つけられるような構造があまりに過度になってしまうことも、不正を行うことへの誘因となることが考えられます。
つい最近も昭和大学の麻酔科で論文不正のニュースがありましたね。
昭和大講師、論文142本に不正 麻酔科、懲戒解雇に:東京新聞 TOKYO Web
「周りは黙認していたのか、止められなかったのか」などなど問題となる点は他にも多くあるでしょうが、これも論文という業績しか評価されず、それでのみ人としての“良さ“が評価されてしまうような構造の問題があるのではないかと感じました。
“能力主義”に対する答えは?
わかりやすい例を用いた鋭い批判が繰り広げられているので、実際に読んでみて欲しいのですが、結論として過度な“能力主義“に対してどうすれば良いのか。あまり明確な結論は出されていません。
マイケル・サンデル自体はコミュニタリアンと呼ばれる思想家で、個人が自律しているものという考えと、国家が中立であるという考えにやや批判的な考えをしています。上の例で見た通り、個人は自分の置かれた環境によって、価値観などにどうにもできない影響を受けることと、国家も例え科学的・技術的な知識があろうが中立的な概念というは十分にとれないことがわかります。
そこで、コミュニタリアンは名前の通りコミュニティ(共同体)という自分たちが生活を共にしている集団に着目し、共同体の中で共有される価値観(共通善と呼ばれる)を反映した政治を勧めています。*4
マイケル・サンデルは例えば、入試に関して「一定の成績以上のものを選抜して、後はくじ引きにする」というなかなかぶっ飛んだ案を出していますが、これのみが確実に正しいわけではなく、共同体の中で理性的に議論を行い導き出して納得するものなら良いのでしょう。上述された能力主義の批判を解消する方法としては確かに意味があるように感じられます。
能力があることを全て批判する本ではありませんが、知らず知らずのうちに能力と自己の責任の有効範囲をあまりに広く取りすぎていることに気付かされる一冊でした。健康、宗教、大学教育、政治とさまざまな話が並びますが、文章はわかりやすく面白いので、今までこういった本を読んでなくても入りやすい方だとは思ったので、ぜひ一度読んでみてください。
参考文献:
*1
*2
*3
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