J.S.ミルが「自由」を重視し続けた理由の続きと他者危害原則とはどこまでを危害と捉えるべきなのかについて書きます。
前回記事はこちら
目次:
明らかに意見が正しくみえるときも反対論を聞く意味があるのか
前回の続きになりますが、世間一般の意見が間違っていた場合は、少数派だとしても反対意見を自由に言えることに利益がある、というのは分かりますが、逆に世間一般の意見があっている場合はどうなのか。つまり、明らかに真理にみえることに、議論を尽くす意味がどこまであるのか。
これについては、正しいと思われることでも議論を尽くさないと真理がみえてこないことがある、と述べています。ギリシャの雄弁家キケロは論敵の意見を自分の主張と同じくらい熱心に分析した、として、反対論を深く吟味することで自分の意見の真理がよりはっきりしてくることを主張します。
加えて、真理にみえることも、実際には半真理(正しい部分もあれば、そうでない部分も含んでいる)ことが多いです。逆に、反対論がいくら間違ったもののようにみえても、その中には一部心理が含まれていることもあり、貴重なものと考えるべきであると述べています。
真理を探究するために自分の意見と同様、反対意見も熟慮せよ、ということですね。
個人における自由を重視することの意味
ここまでは人類全体の恒久の利益を求めるため、議論を行い発展させる過程には、思想や言論の自由が必要だ、という話でした。社会全体のことを考えた意見です。
さらに『自由論』では、思想・言論の自由において述べた次の章で、個人にとっての自由の重要性を説明しています。
要するに、他人に直接関係しないことがらにおいては、個性が前面に出ることが望ましい。その人自身の性格でなく、世間の伝統や慣習を行為のルールにしていると、人間を幸せにする主要な要素が失われる。個人と社会の進歩にとっての重要な要素も失われる。(J.S.ミル著、斎藤悦則訳『自由論』)
世間一般において、「個性の自由な発展や自発性に価値がある」という発想が足りていないことを訴えます。さらに読者へ具体的にその主張を訴えていきます
現代人は、世間の慣習になっているもの以外には、好みの対象が思い浮かばなくなっているのである。現代人は、このように、精神が束縛されている。娯楽でさえ、みんなに合わせることを第一に考える。…(中略)…強い願望も素朴な喜びももてなくなり、自分で育み自分自身のものだといえるような意見も感情ももたない人間となる。はたして、これが人間性の望ましいあり方なのだろうか。(『自由論』)
これはなかなか厳しい文章です。まるで今の時代にも通じそうな言葉です。慣習にとらわれ過ぎず、自分の好みをもち、自分で選択をしていくことで、判断力・洞察力・学習力といった能力を鍛えることが自身の幸せとともに人類全体の発展を促す、と考えていたようです。
章の後半ではアジアとヨーロッパを比較し、当時産業革命後、発展を続けるヨーロッパの特別性を自由による個性の発展と活発な議論による社会の発展の中に見出しています。
以上のように、ミルは、社会の発展+個人の発展がいずれも(他者危害の原則に沿った)自由によって達成することができることを説明しました。
どこまでを他者危害とするのか
SNSによる人格攻撃
自由がどこまで許されて、どこまでが他者の危害と言えるのか。これは現代でも議論の分かれるところだと思います。
例えば、現代におけるネットでの炎上とそれによって自殺に追い込まれるような罵倒のコメントと言論の自由をどう考えるか。
『自由論』でも触れられているのは、口汚い非難・嘲笑・人身攻撃といったものです。言葉が巧みであればあるほど、相手側は不快に感じるとは言いますが、そこまではいいものの、こういった人格非難はするべきではないし、特に少数意見に対して行うことは避けるべきだとしています。なぜなら少数意見がそれによって抑え込まれると反対する気もなくしてしまうから、だと。しかしそうだとしても法律は関与すべきではなく、世論によって判断を下すべき、と考えていたようです。
ところが現代の問題が、ミルの時代における”意見”と異なるのはこれらの意見が匿名性であり(世論によって裁くこともできない)、一方通行である(数が多いと反対意見も伝わらない)点です。また、「炎上」したときには、批判的な意見がまるで多数派かのようにみえることがあり(世間全体でどうかは実際分からない)余計に支配的となって、反対意見を聞かなくなることも往々にして認められます。そうなると何とか出来るのは法律や政府しかありません。
またここで、ミルが主張していた自由に意見をすることのメリットを考えてみると、ここまでに述べた通り意見と議論による人類恒久の利益の発展でした。果たしてネットに寄せられるただの人格攻撃に過ぎない短文が発展を促すのか。そこには疑問符がつきます。
そうなると、SNSの運営会社に対しての多少のルール作りは必要になるのかもしれません。自分たちに必要なのはそのルールが自由に対して干渉しすぎないか注意を払うことになるでしょう。
喫煙と健康被害
医療従事者にとって喫煙は悩みのタネです(といっても医療従事者の中にも喫煙者はそれなりにいますが)。血管障害という点では仕事を増やす原因になりますし、医療費高騰の一端にもなるのでないかと感じられます。「タバコなんて消えてなくなればいい」というぐらいの気持ちになることも多々あります。
実際これはタバコに限ったものではなく、脂質異常症・糖尿病・高血圧といった生活習慣病についても話が拡大されうるものです。これらは個人の健康に影響を与える要因でありながら、社会全体に与える不利益も大きいことが徐々に明らかになっています。これも規制するべきなのでしょうか。
ミルの思想に沿って考えれば、タバコも生活習慣病も本人が健康被害を負うという範囲でいえば基本的には規制をすべきではない、と言えるでしょう。あくまで個人の嗜好だからです。
ただし、タバコや悪い生活習慣が、それを推奨することで利益が得られる集団(つまりはタバコの会社とか)がある場合に、事態は複雑になります。つまりその集団は公共の福祉を害する行動を推奨することで利益を得ているからです。
『自由論』においてミルはそういった点についても触れています。「人々がそういった集団に好みを刺激されて操られないようにする」ことは説得力があると述べています(ただ、正しいとまでは言わない)。酒を例に挙げて、例えば品行方正な人のみに売るようにする、問題が起こった時用に警察が取り締まりのしやすい場所で飲む、お店の開店時間を制限する、などの措置を考案しています。
要するに有害なものであっても完全な規制はすべきでなく、あくまで有害なことが起きないようにする制限に留めよ、ということですね。これは現代でいう「ナッジ」の考え方に近いと思われます。「ナッジ」とは「肘でつつく」という意味で、強制はしないまでも好ましい行動をとるように、少し誘導するということです。例えばレジの近くのような買いものをしやすい場所に、不健康な食品を置かないようにする、とかですね。
まとめ
だらだらと長くなってしまいましたが、とりあえずミルについてはこれでおしまいです。
「自由」を”自然な権利”という漠然としたものでなく、なぜ「自由」であることに利益があるのか、功利主義的な視点で述べたのがミルの特徴です。自由のもつ発展性と個性の尊重は今も十分に伝えられている理念だと思いますが、その原点とも言えます。改めて「自由」であることの意義を捉えなおすには良い思想の一つになると思われます。
参考文献(最初の記事で内容は紹介しています):
J.S.ミル著『自由論』
杉原四郎著『J.S.ミルと現代』
ピーター・シンガー、カタジナ・デ・ラザリ=ラデク著『功利主義とは何か』
児玉聡著『功利主義入門』
中村隆之著『はじめての経済思想史』
コメントを残す