健康主義はいかに強大か『健康禍 人間的医学の終焉と強制的健康主義の台頭』レビュー

今回書籍で紹介したいのが『健康禍』という一冊です。1年ほど前に読んだのですが、思うところが多すぎてなんとも紹介記事を書くのに時間を要しました。

臨床医をやっていると医療の理想と現実との違和感をたびたび感じます。その理由をこの本はうまく捉えているように思えたので、とても魅かれました。医療従事者にぜひ一度読んで欲しいと感じたので、ここで紹介してみます。

臨床での生活習慣に対する介入

私は急性期病院に勤務していますが、入院患者さんは脳梗塞が大半なので、高血圧・糖尿病・脂質異常症といったいわゆる生活習慣病への説明や喫煙・飲酒習慣に対する説明を非常に頻繁に行います。そんな中で本人とご家族にお話ししていると色々な質問がみられます。

「先生、コレステロールが高いのが脳梗塞の原因ですかね?何を食べたらいいですか?」
「すごく熱い風呂に入るんですけど、血圧の変動はダメなんですよね?」

といった生活上の質問や、あるいは家族の方から

「お酒とタバコもやってるんですよ。これが原因ですよね?先生、これを機にやめさせてください!」

といった糾弾まで様々です。ただ、いずれも何らかの原因が生活習慣にあって、それが良い、あるいは悪いのではないかという前提に立って質問をされます。脳梗塞の再発予防という点ですとまだそれは多少なりとも答えようがあるのですが、さらには発症していない病気についても同じような質問が出てくることがあります。

「認知症にならないためにはどうしたらいいですか?」
「(脳ドックで脳の虚血性の変化を指摘されて)脳梗塞にならないためにはどうしたらいいですか?」

不安になる気持ちはわかるのですが、正直こういった質問の多くははっきりとした効果が明確な答えがありません。にも関わらず、インターネットでは少しの変化を拡大解釈したような生活へのアドバイスに溢れています。果たしてこういった人たちの生活にわざわざ介入するような意味や権利は医学にあるのでしょうか。また上で述べたように家族に言われたとして、お酒やタバコを強制的にやめさせるような権限はあるのでしょうか。

健康であることを何より優先し、無条件に良い事だと捉えてしまう“健康主義“と医学が有する強い権力に対する警鐘を鳴らしてくれるのが今回紹介する『健康禍 人間的医学の終焉と強制的健康主義の台頭(原題:DEATH OF HUMANE MEDICINE And the Rise of Coercive Healthism)』です。

書籍の内容と著者について

この本の著者はペトル・シュクラバーネク(Petr Skrabanek)と言うチェコ生まれ・アイルランド在住であった(既に亡くなられています)医師・医学教授です。サブスタンスPに関する研究など医師・研究者としての活動に加えて、医学雑誌Lancetの編集委員を務めるなど幅広く活動されていたようです。より詳しくは英語版Wikipediaが参考になるかと思います。

Petr Skrabanek – Wikipedia

予防医学や代替医学に対する鋭い批判が評価されており、この本では予防医学とそれに基づいた国家による生活習慣への強い介入が主な批判の対象となっています。これは1994年に書かれたもので、ペトル・シュクラバーネクが亡くなった年に出版されています。

この本は第1部「健康主義」、第2部「生活習慣主義」、第3部「強制的医学」の全3部構成となっています。第1部では健康主義というイデオロギーがいかに商業的・政治的・専門的に利用されているかの概略を示します。続いて、第2部では健康の名の下に生活習慣の管理を強め、国策として国民の行動を標準化しようとしている点に着目します。その根拠は“科学的・客観的”かのように見えますが、飲酒・喫煙・セックスなど道徳的に悪とされるものが実は対象とされやすいことを指摘します。第3部ではこうした「すべての人に健康を」という目標が、多くの人に影響を与えていて、背景に権力を伴っていることを意識するよう促します。

冒頭で語っているように専門的な医学知識を主体に話が進むというよりは、歴史や巧みな言葉遣いでこの問題を暴き出していくことが印象的です。言葉がかなり尖っているので、医療従事者が読むと反発を感じやすいところも少なくないと思いますが、反発を招くところこそ実は痛いところをついているかもしれませんので、時間を空けつつ頭を冷やして読み直すのが良いのではないでしょうか。

健康主義に向かうベクトルはあまりに強い

さて、ここからは本の内容と現在における個人的な意見を交えて紹介していきます。本書で根本的に問題視しているのは“すべての人の健康“をあまりに重視してしまうことで、現在の医療が本来の個人的で苦しさを和らげるための医療から遠く離れつつあるという点です。この“健康“を意識しすぎる力が強まる原因は多く、なんとか抑えようとしなければどうしても強まっていくように思います。本が書かれたのは前述した通り1994年で既にそこから30年近く経過しているわけですが、健康主義に向かうベクトルが強い構造は、本質的に今も特に変わっていないと思います。この本で紹介されている健康主義が強い力を持つ理由を参考にして、その現代での状況を考えてみます。

健康は経済的な利益を生む

まず、健康主義というのは商業的な利用ととても相性が良いです。簡単に思いつくところとして、健康主義を推進して乗っかることは金銭的な利益につながります。身近なところでいえばスーパーやコンビニで売られている食品や外食先のメニューも「ビタミン〜を多く含む」「食物繊維が〜」「高タンパク質、低カロリー」など健康に関連した表示は非常に多く見られますね。「健康的な食事」「エビデンスのある食事」といった本や記事は書店でもよく平積みにされ「売り上げ〜万部!」と大々的に宣伝されています*1。例えその健康への効果が全体から見ると僅かであるにせよです。運動グッズは流行と衰退を繰り返しながら新しいものが次々と出現しますし、最近ではapple watchのようなデバイスも健康を謳った広告を全面に打ち出します*2。

365日の健康管理を謳うtwitterでの広告

加えて、健康に強い関心がある人をターゲットにした怪しい健康食品や胡散臭い自費診療なんかもお金に繋がることは明白です。これらも「健康は大事」「病気は不安」という意識につけ込んでお金を儲けようとします。

また、この傾向は一般的に自由に購入される商品やサービスのみではありません。保険診療に関わる医療従事者や製薬会社などの医療関連企業も健康への意識を高めることで利益につながります。特に予防的な医学やスクリーニング検査は市場の拡大にもってこいで、介入先が疾患の有無に関わらず対象となるすべての人になるため、それが増えれば増えるほど当然ながらパイは大きくなり、儲けも出てきます。ここ最近のコロナワクチンや高血圧・糖尿病・脂質異常・認知症・がんといった疾患の検査・予防的介入は多くの人が巻き込まれる話であり、特に儲けの出る対象となりやすいです。儲けが出ればそこに資本が注入されるわけで、さらにその分野への介入が進む。そんな構造は避け難いように思います。

ただ、これは別に「健康でお金を稼ぐなんてけしからん!」という極論を言いたいわけではありません。過剰な宣伝や詐欺行為があるものは問題だと思いますが、そうでなければ問題視されるものでもないでしょう。ただ、着目しておきたいのは構造として健康と商業との結びつきが強くなる可能性は高く、その分消費者の不安を煽ったり、価値を過剰に演出する可能性が高いという点です。

健康とお金の関係を批判するのは巷でよくみかける陰謀論(例えば「利益を守るために○○○という薬は不都合なデータを隠蔽しているのだ!」とか)と親和性があるわけですが、少なくともこの本は問題の根底に陰謀論を置いているわけではありません。健康を強く勧める人たちはこうした陰謀で悪いことをしている人というより、むしろ善意でおすすめしている人の方がおそらく多く、それがより問題を根深いものにしているように思います。次の内容で続けていきます。

健康は万人に共通した善である

健康主義の中では健康は万人に共通した善いこと、とされています。健康主義の中で目指す健康というのは、万人に共通したものなので「寿命を伸ばす」「QOLを伸ばす」など、標準化された形があります。具体的な目標として標準化した“健康“を打ち出すことは、国としても医療従事者としても楽で、わかりやすいです。その標準化した健康へ向けてガイドラインで血圧、運動、食事、飲酒、喫煙などの生活習慣の目標値を設定し、進んでいくことは介入を受ける側の個人としても安心感があります。ここに関して本書では以下のように述べられています。

健康主義は強力なイデオロギーである。なぜなら非宗教化した社会において、健康主義は宗教が欠けたあとの真空を埋めてくれるから。宗教の代用品として、健康主義は幅広い支持を得ている。特に、伝統的な文化とのつながりを失って、急速に変化する世界の中でますます不安を感じている中流階級の人たちから。健康主義は神の救済の代わりに人を救う道として熱心に受容されている。

第一部「健康主義」より

冒頭に紹介した経験からもまさにこれはその通りだと思うのですが、どのように生活したら良いのかよりどころがなく、不安を埋めるための手段を医療に求めることは非常によくみられるように思います。テレビやインターネットなどで普段から病気に対する不安を煽られていれば尚更かもしれません。

そしてこれを勧める側も満更ではないのかもしれません。自分もつい生活への助言を求められるとまるで自分が啓示を受けた先導者であるかのように「こうした生活をすると良いですよ」と説明することがあります。標準化された数値は個々人に合わせて細かく考えなくても良いですし、わかりやすい。そして何よりそうすることで感謝され、まるで100%の善意で溢れているかのような行為にみえます。「健康第一」「健康が何より大事」などの声は耳障りがよく、多くの人に受け入れられそうな言葉です。多数の人が良いと思っていること、介入を受ける側も安心感をもって喜ぶことを推し進めていくわけですから、これも当然強い推進力を持ちます。先にあげた経済面以上に根底にある問題はこちらではないでしょうか。

健康でいることは幸福であるようにみえます。そこを特に筆者も否定したい訳ではないと思います。しかし、健康というのは線引きが曖昧です。簡単な例で言えば今や生活習慣病の中心である“高血圧“も健康ではない病気として認識されたのは比較的最近です。血圧の測定が可能になったのが1896年ごろとされていますし、それが介入すべき疾患だと認識されるようになってきたのは1950年以降のことです*3。ここで初めて高血圧がある=健康ではない、という考えができたわけですが、これでさえも本人が血圧を測定しなければ認識されることもありません。つまり、健康や病気というのは時代や状況、本人の認識によって変化しうるぼんやりとした概念であることがわかります。

本人が健康であると感じることは良いことなのでしょうが、これを万人に共通した善であるとして国が目標にしようとすると、多様で曖昧な概念である健康を一緒くたにまとめて標準化する必要があり、そこを全員が目指そうとすると不利益を被る人がどうしても生じます。例えば、先ほど挙げた血圧、食事、運動時間、飲酒の量など健康の目標値は、達成するために犠牲にしなければいけないものが人によって異なります。自分の場合、そもそもお酒は飲めないので何もしなくても飲酒の量は常に目標範囲ですが、運動習慣を作ろうと思うと、睡眠時間か勉強時間、或いは子どもと過ごす時間を犠牲にしなければいけません。妻に子どもを任せてのんびりランニングをするとか犠牲が大きすぎますね笑

運動や食事といった生活習慣への介入はなんとなく薬剤による介入に比べて悪い影響が少ないようなイメージを持たれがちなので抵抗感がない人が多いように思いますが、それによって受ける時間や行動の制限は果たして得られるメリットと比べて妥当なのでしょうか。具体的な例によるとは思いますが、生活習慣への介入がメリットとして研究で示されているものは多くが後方視的研究です。背景因子の調整のため補正を必要とするので、個人における効果の正確な推定が難しいです。また総じて劇的に大きな結果を生み出すことはない(有効であってもそもそものイベント数が少ないことが多い)ので効果を実感することはかなり難しいでしょう。この辺りの話は『エビデンスをめぐる往復書簡』*4でも触れられていましたが、論文でデータとして得られるのはあくまで「公共」の数字であって、個人になかなか還元できるものではありません。

道徳的な正しさと健康

「健康は万人に共通した善である」という主張の中では健康が道徳的な意味と結びつけられていることにも注目が必要です。具体的にはタバコ、飲酒、セックスが道徳的に悪い生活習慣の代表として歴史的に以前から(主には1800年代以降)攻撃の対象となっています。しかし、この本で語られる過去の事例はあまりにも荒唐無稽な話も多く、一見現代に積み上げられたエビデンスはそうではないように感じられます。本書でも道徳的な生活習慣の問題と健康を結びつける論理は表面上目立たなくなってきていることを語っています。

現代の健康づくり論者のレトリックでは、あからさまな道徳化はおおむね姿を消している。とはいえ健康づくり論者が言う健康的で清らかな生きかたの理想的な例は、モーツァルトやピカソやベーコンやヴェルレーヌといった問題児たちとは少しも似ていない。

第二部「生活習慣主義」より

とはいえ、表立っていないとしても、明らかにこうした道徳的な正しさと健康への結びつきは今なお続いているように思います。例えば、以前に紹介したマイケル・サンデルの『実力も運のうち 能力主義は正義か?』*5では健康であることが正しいこと、病気をすることは悪い習慣によるもの、という考え方が現代でも広がっていることが指摘されていました。

医療者の立場で“能力主義“について考える『実力も運のうち 能力主義は正義か?』レビュー – 脳内ライブラリアン

以前外来でパーキンソン病が疑われる、と言うことを患者さんに伝えた時

「酒もタバコもやってなくて、何も悪いことはしていないのになあ・・・」

と呟かれた方がいました。言うまでもありませんが、パーキンソン病は悪いことをしたからなるわけではありません。「病気=悪い習慣による」という考え方が浸透しすぎているのではないでしょうか。

特に悪い習慣の代表である喫煙者に対して医療従事者が冷たい目線を送ることは 1994年に出版されたこの本を見ても昔からよくある視点のようです。

医学誌では、喫煙者が非喫煙者と同じ医療ケアを受けられるべきかという議論が定期的に沸き起こる。…(中略)…医師はまだ飲酒運転をした人やテロリストのけがを治療することを拒否していないわけだが、喫煙者にはなぜそんなに差別的な扱いを続けようと必死なのだろう?

第二部「生活習慣主義」より

タバコは僕も吸いませんし、別に好きではないのですが、ただ他にも悪いと思われる生活習慣や行動はいくらでもあります。例えば、この本で医師が患者に責任を求める行き過ぎた例として過体重、ハンググライディングなどのリスクのあるスポーツをすること、が挙げられています。果たしてこの責任を患者さんに求めるのは妥当だと思うでしょうか。いったいどこまで制限をするべきなのか、その習慣や行動をした人に責任を求めるべきなのか、言い始めたらキリがありません。もちろんタバコに関しては病気に結びつく確固たるエビデンスが多数あるので、他とは違うと言われればそうかもしれません。ですが、別の習慣にも同じように悪い証拠が積み重なったらどんどん禁止していくのでしょうか。それはちょっと行き過ぎだと個人的には思います。

健康=善とする反面で、病気=悪として行う犯人探しは、エビデンスの解釈を歪めることにも繋がります。悪いイメージを持った生活習慣と病気のつながりを探し出そうとする行為は科学的でもなければ客観的でもありません。当然みたいものしかみつからなくなってしまいます。いかに統計的な技術が発達したとしてもここに関しては十分に乗り越えられないでしょう。

もちろん、メタアナリシスという方法で複数の研究を統合することで偏った研究のみを抽出しないよう是正することができるかもしれませんが、出版バイアス(ポジティブな結果が出たものが出版されやすい)を十分に除外することはいまだに不可能です。また、最近の統計的因果推論に則ると、ここまでで述べた問題のうち、集団ではなく個人における効果の推定やある介入がなかったときにどんな結果となったかの推測(潜在的な結果)は、十分なデータがあればより詳細に求めていくことができるようになるのではないかと思っています。しかしながら、この因果推論であっても、その大家であるJudea Pearlが著作『The Book of Why』*6で述べているように、データがあれば客観的・中立的な状態で因果関係が導き出されるわけではありません。事前知識をもとに人が構築した因果モデルを元としてそれを検証していくわけです。やはり初めから特定の何かを犯人と疑った状態では因果モデルを見つけ出す眼も曇ってしまいます。先入観に全く影響を受けないというのは理想論になってしまうかもしれませんが、それでも強い偏りを持つことはできるだけ避けるべき姿勢でしょう。

健康主義は権力と結びつく

さて、ここまでみてきた健康主義の表面上の特徴を考えると
・最大多数に普遍的な良い効果をもたらし
・予防的介入などで利益を生み出すことができ
・科学的かつ客観的である
ということでこの上なく国の権力とは相性が良いことがわかります。

普遍的かつ多くの人に利益をもたらし、中立的で、しかも利益を生み出すかもしれない方針というのはとてもバランスがよく見えます。そうなると国をあげて取り組みたくもなりますし、国からの研究費を獲得しようと思うと、必然的にこのニーズを満たす予防医学に注力することとなります。JAMAやLancetでもこういった食事・運動などによる予防医学のエビデンスは日々増えていっています。医師としても業績は欲しいわけなので、こういった方向性は大きな変化がなければ今後も続いていくのではないでしょうか。

今までの点で負の側面をあげてきたように、実は個人にとってこうした権力の増強はあまり良いものとは思えず、さらに必ずしも科学的・客観的というわけではないということは頭に留めておくべきことではないかと思います。

健康主義を推し進める要因はあまりに多い

この本は1994年当時の話になるわけですが、結局のところ現代においても大まかな構造は実は変わっていないように感じます。健康主義を進める方向へ行くアクセルはあまりに強く、それに対してブレーキとなるようなものはあまりありません。本書のような考え方が少しでも理解されればブレーキの一つとはなるのではないでしょうか。

しかしながら、批判として攻撃的な点がどうしても目につくので、読んで反発したくなる思いを感じる医師はきっと多くいると思います。実際、冒頭にリンクしたWikipedia英語版を見ても、ペトル氏の意見には賛否両論あるようですし、特にここで大きく取り上げられている生活習慣病と呼ばれる疾患を専門に取り組み人にとっては自身のアイデンティティに関わる批判なので(ライフワークを否定的にみられたらそりゃ怒ります)反発は必至でしょう。

ただ、ここで注意して欲しいのはおそらくこの本は現代医学全般を否定したいわけではなく、現代医学を形成するにあたって、その上流にある健康へのあまりに過剰な期待や価値の置き方を批判したいのではないでしょうか。序文の最後の段落では次のように表現しています。

この本は医学の本ではない。医学の理想の曲解、特にアングロアメリカの医学のイデオロギーが優勢な国における曲解についての本だ。それでも理性的な核を持つ医学は西洋の医学しかない。私は医学相対主義を信じるものではない。私の批判は東洋の「ホリスティックな」たわごとを是認するのではない。…

序文より

医学の理想が曲解されていることに警鐘を鳴らしているわけです。現代医学、特に批判の対象となっている予防医学が丸ごと間違っているというわけではなく、その方向性と視点の持ち方を少し変えるべきという話であるように思います。果たして意味があるかどうか分からない程度の変化を重要視して生活習慣の是正を促したり、全ての人に当てはまるか分からない研究を持ち出して万人に共通する大事な習慣であるかのように説明したり、といったことは本当によく起こりがちです。そうした気持ちをグッと抑えられるのはそれを生み出す医師とメディア次第ではないでしょうか。

医学に対する批判というと、どうしても医療側としては頑なな態度をとりがちでエビデンスと照らし合わせて正しいかどうかで断罪されてしまうことがあります。きっとこの本を批判しようとすると、その中にあるエビデンスが正しいかどうか粗探しをしたくなる気がします。しかしまた違った次元での批判というのがこの健康主義にはあるのではないかと思います。問題はエビデンスそのものではなく、そのエビデンスに対する解釈やエビデンスを生み出す際の問いの立て方です。これはエビデンスよりももっと上流の問題であると思います。

約30年前の本でありながら現在の問題に通じている

出版は1994年ですが翻訳は2020年にされており、日本語版はつい最近出たものとなっています。あとがきでは翻訳をされた医師・ライターの大脇幸四郎さんが「2020年の日本にとって必要なもの」と書いています。健康主義に向かう大きな構造はここまで書いてきたように実はあまり変わっておらず、むしろ強化されています。だからこそ今の日本の医療においても知っておくべき考え方だと感じられます。ただ、個々の研究の話は古くなってしまっている部分もあり、セクシュアル・ハラスメントの話など今の世の中に明らかにそぐわない記述も見受けられるので、細かい内容全てに同意できるものではないだろうと思います。

興味があって翻訳者の大脇さんの著作である『運動・減塩はいますぐやめるに限る!』*7も読んでみましたが、現代にも健康主義・生活習慣主義がしっかりと蔓延っていることが感じ取れます。やはり現在進行形の問題であり、今後の医療の進む方向性を考える上でも必ず意識すべき視点なのでしょう。

ここで紹介した内容はごく一部であり、エビデンスだけではない独特な文章と鋭い批判は十分に伝えられないので、ちょっと読んでいると反発したくなるかもしれませんが、ぜひ医療に関わる人に一度読んでみて欲しいと思っています。

結構長くなってしまいましたが、最後にこの記事を書きながら思い出された神経難病の患者さんのエピソードを書きます(適宜フィクションを交えています)。

その方は進行性の神経難病で症状が進行しており、胃ろうや気管切開・人工呼吸器の装着をどうするか、ご家族と一緒にお話をする機会をつくっていました。

息子さん、娘さんや奥様など集まっていただき、「今後症状がどのように進行するか」「胃ろうや呼吸器を使用することによるメリット・デメリット」「どこでどのように過ごすことになるか」「最後はどのくらいか」といったことを少しずつお話ししていきました。

実際、胃ろうや呼吸器をどうしたいか、患者さんに尋ねると「よくわからないよ。先生決めてくれよ。」と言われました。事前に少し説明はしていましたが、難しい話なのでイメージしにくい部分が多かったのだろうとは思います。そこでもう一度説明しましたが「うーん、わからないな、、、。どうしたらいい?」と迷われています。

その時、息子さんが言いました。

「親父。先生はさあ、聖職者とか牧師様じゃねえんだからさ。どういう生き方がいいかなんて分かんないんだよ。それは親父が決めるんだよ。」

それを聞いて本人は「ちょっと考えてみる、、、。」といって数日考えられました。その後、胃ろうや呼吸器などの処置はしないことに決められました。以降は食べられる範囲で食事を摂り、できるだけ望んでいた自宅で過ごしていただくようにしていました。そして、数ヶ月後希望していた自宅で息を引き取られました。

最終的に希望されていた過ごし方ができたようだった、と後でご家族よりお話を伺いました。説明の時に息子さんが言っていたことは厳しいようですが、個人的にはその通りだと思っていて、その人にとって“正しい“あるいは“善い”生き方を医師が決めるものではありません。“正しい健康“という万人に共通の理想像がどこかにあるわけではありません。皮肉なことに根本的な治療ができない神経の難病であるからこそ、逆に主体的に方向性を決めていることが印象に残りました。

逆に医学の力を過信して何でも介入しようとすると、その分だけ生活は不自由になり、主体性は失われます。患者さんと直接関わる医療従事者や情報発信をする医療従事者もそのことは常に忘れてはいけないと思います。

参考文献など

*1 具体名は触れませんが、生活習慣によって疾患にかかりにくくなるいうことを示した本の中にはその主張のために過剰に効果を喧伝するものが多いように思います。エビデンスそのものは間違っていないのですが、相対リスクのみを示してみたり、主要な結果でうまく差が出ていなかったのでサブグループに着目して説明したりするのはフェアな説明ではないと思っています。例えば一般的な読者が「25%のリスク減少」と言われた時に、実際は発症率が1.25%→1%の変化だということに気づくでしょうか。

*2 心房細動の検出が先日ネットの記事で話題となっていましたが、心房細動のスクリーニング自体がそもそもどの程度持続する心房細動に介入すべきなのか解答が出ておらず、診断が抗凝固薬の導入というリスクのある介入に直接結びつきうるため(導入はリスク因子次第であるにしても)過剰診断の危険はある程度大きいのではないでしょうか。こういうデバイスは割と好きですが1日の健康診断が有益だとしても365日の健康管理はかえって悪い可能性もあります。

*3 『高血圧 変わる常識 変わらぬ非常識 -臨床高血圧の125年-』


こういった本の歴史のセクションが最近好きになりました。現在の疾患に対するイメージをちょっと相対化できるのが楽しいです。

*4 『エビデンスをめぐる往復書簡 -EBM実践の向こう側』


本書と似たような点も含みつつ医療をめぐる課題を指摘する一冊です。科学哲学やエビデンスが好きな人におすすめです。

*5 『実力も運のうち 能力主義は正義か?』


能力に対する価値について論じた一冊。筆者の主張としては能力にそこまで価値を置きすぎる冪ではない、ということだと思うのですが、価値を変えるための方法というのはなかなか難しいもので、うまく提案されているとは言い難い気がします。

*6 『The Book of Why』


実はまだ読んでいる途中なのですが、冒頭の時点でPearlが伝えたいメッセージとして”If I could sum up the message of this book in one pithy phrase, it would be that you are smarter than your data. Data do not understand causes and effects; humans do.”とあります。このメッセージは繰り返し出てきます。データが因果を示してくれるわけではないというわけです。

*7 『運動・減塩はいますぐやめるに限る! -「正しい健康情報」の罠』


声高に叫ばれる主流な医学に対する批判というのは一見トンデモ医学本のように見えてしまうので難しいですね。「途中でこの本を捨ててください」と何度も勧められるという珍しい一冊でしたがkindle版なので捨てられませんでした。

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