前回に続いてイマヌエル・カントについて。「カント入門 石川文康著」を中心に要約します。
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カントってどんな人
カントは1724年生まれ、前回みていたアダム・スミスとちょうど1歳違いですね。関連はあまりありませんが、アダム・スミスと仲の良かったデイヴィッド・ヒュームの影響を受けている部分はあるようです。
現在はロシア連邦内にあるケーニヒスベルクで生まれ、80歳で同じ都市で亡くなっています。生まれたところからほとんど離れていません。そして、これといったドラマチックなエピソードもありません。
よくエピソードとして出されるのは前回も書いた「町の人がカントの散歩の時間をみて時計を合わせた」ということや「その散歩もルソーの『エミール』を読みふけったときだけ時間がずれてしまった」という話あたりです。死ぬときに「これでよし」と言って亡くなったというエピソードも高校時代に資料集で読んだ気がします。なんというか真面目できっちりした印象を受けます。
父は馬具職人で両親は敬虔なプロテスタントだったようで、きっちりした真面目な子どもが育ちそうなお家柄です。
16歳でケーニヒスベルク大学に入学し、31歳で大学の講師になりました。形而上学、論理学、倫理学、法律学、地理学、人類学などを教えています。幅広いなと思いますが、これが当時はそういうものだったのかどうかよくわかりません。ただ、『自然地理学』など哲学以外の本も出していることからきっと多彩だったのでしょう。なんと日本の「出島」「踏み絵」のことなども書いてあったそうです。驚きです。
その後、57歳のころに3批判書と呼ばれる本の初めである『純粋理性批判』を発表します。続いて『実践理性批判』『判断力批判』と書き上げていきます。
そこで、まずこの『純粋理性批判』とは理性をどう批判したのか、から入っていきます。
理性の批判ってなんだ
理性の限界を論じることがカントの考え方の礎になっていると思われるので、まずここからまとめてみます。
当時の哲学の考え方には大陸合理論 VS イギリス経験論の構図がありました。大陸合理論は物事を理屈で考えていった結果、なんでも数学的に証明しちゃうライプニッツに行き着き、イギリス経験論は確実な証拠を求めるあまり、何も知として認められないヒュームの懐疑論に考えがいってしまったようです。そこでカントはその両極端の間に入ります。
これら二つの理論は反対のことを言っているのですが、果たしてそもそも人間の「理性」がそれに答えを出すことができるのか。根本から問い直します。
哲学では形而上学的な問い(実際に経験できないこと)を探求します。その問いに対しての理性の出す解答は矛盾(二律背反=アンチノミーと言われる)してきます。そこに理性の限界を見出すのがカントの考え方の基礎なようです。この時点でよく意味が分からないと思うので具体的な例を出します。
第一アンチノミー
簡単に言えば、ある問いに対して理性的に解答すると矛盾が生じる=理性の限界、というのを見極めるわけです。
その問いとしてカントが挙げたものに第一から第四の4つのアンチノミーがあるのですが、とりあえず一と三に内容を絞ります。まずは一から。
第一アンチノミーは時間と空間に関する哲学らしい問いです。
テーゼ(命題):世界は空間・時間的に始まりを有する
アンチテーゼ(命題の反対):世界は空間・時間的に無限である(「カント入門 石川文康著p.23より引用」)
こんなん定言命法とか道徳とどう関係してくるねん、と最初本を読んだ時には思ったのですが、意外にも後から関係してくるんです。
この問いを理性を用いて解答するとどうなるか。
テーゼは世界に始まりがあるとしている。すると始まりの前には何もない時間と空間があったことになるが、全く何もない時間と空間からは何も生まれてくるはずがない。よって「偽」。
アンチテーゼは世界に始まりはなく時間空間は無限に広がっていると考える。すると現在という完結した時点を想定できない。よって「偽」。
どっちも「偽」となりました。ということはどういうことか。
こうした命題においてどっちも偽になる場合、前提が間違っているということにカントは気づきました。
分かりやすくするために、カントは具体的な例を出しています。
テーゼ:「四角い円はまるい」
アンチテーゼ:「四角い円はまるくない」
これはどうでしょうか。テーゼは「四角い」と言っているので偽だし、アンチテーゼは円と言っているのだから「まるい」はずで偽??どちらも偽と言ってもいいかもしれませんが何がおかしいかと言えば、「四角い円」という前提がおかしい。
これと同様に第一アンチノミーの場合も、前提がおかしいとカントは考えました。つまり、前提条件として世界全体を時間や空間を通して認識できるというのが間違いで、時間と空間というのはあくまで主観的なものであって、世界全体を客観的に見るものではない、ということを示しました。
物自体と英知界
この考えをさらに拡張していくのがカントの面白いところです。カントは我々は空間と時間という眼鏡を通して世の中をみており、それを通してのみ物事を認識できると考えます。そして、空間と時間のおよばない客観性のある存在を「物自体」と呼びました。プラトンの「イデア論」に近い気がしますね。さらに空間・時間によって成り立つ世界のことを「感性界」、空間や時間から解放された世界を「英知界」と呼びました。
定言命法なんて分かりやすい指示からどんどん離れていく気がしますが、そのうち戻ってきます。今回と同様に二律背反を指摘する、第三アンチノミーの話に次回は移ります。
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