マルティン・ハイデガーの『存在と時間』に入門してみる⑦

今回はようやくタイトル回収となる、存在と時間性についてみていきます。

 

前回までは現存在の全てを本来的な生き方で考えるには、死への不安を受け入れ、先駆的覚悟性が必要である、という話まで見ました。それはどういう条件があれば可能になるの?という話になります。

 

気が狂わんばかりに難解な文を無理やり読み進めてきた本記事ですが、今回で最後です。

 

目次:

 

 

前回までの記事はこちら↓

マルティン・ハイデガーの『存在と時間』に入門してみる⑥

マルティン・ハイデガーの『存在と時間』に入門してみる⑤

マルティン・ハイデガーの『存在と時間』に入門してみる④

マルティン・ハイデガーの『存在と時間』に入門してみる③

マルティン・ハイデガーの『存在と時間』に入門してみる②

マルティン・ハイデガーの『存在と時間』に入門してみる①

 

日常的な時間の扱い

ハイデガーは先駆的覚悟性を可能にする条件は「時間」であるとして、非本来的(=日常的)な時間の扱われ方と本来的な時間の扱われ方について説明していきます。

 

実際の『存在と時間』ではそれぞれ気分・了解・語り・頽落と時間性の関係について語っているわけですが、全般として日常的な時間の扱われ方がどうなのか。『ハイデガー入門』*1を参考にしつつ紹介してみたいと思います。

 

日常的には時間というのは誰しも共通した数値で表されます。

200X年 XX月XX日といえば誰にとっても同じ時点を指しますし、「1時間後にまた落ち合おう」と言われたら、その時間は同じものであるはずです。

 

しかしハイデガーに言わせるとそのように誰しも共通な客観的なモノとしての「時間」の扱い方は非本来的である、と言います。

 

例えば以前客観的な距離に関して述べたように、同じ数値で表される距離であっても、その人によって感じ方が違います。普通に歩ける人にとっての3mと足が不自由な人にとっての3mはまるで違うように感じるはずです。

 

同様に、時間の流れをあたかも一本の紐のようにつながった”モノ”としてみるのは本来的な見方ではないとします。 

 

本来的な時間としての「将来」「既在」「現在」

では、本来的な時間というのはどんなものなのか。「将来(訳語によっては到来)」「既在」「現在」と用語を付け直して、それぞれの本来的な意味を見直していきます。

 

まず、「将来」は先駆することであり、「自分が可能性に差し向けられていることの自覚」を指しています。死に対しての先駆や了解における企投で述べられたように、人間が可能性へと向けられながら存在している状態です。

 

次に「既在」は、「被投性を引き受ける」ことを指します。既になっている環境を受け入れること、自身の可能性が制約されていることを認めます。

 

そして、「現在」は将来と既在により自身の可能性を自覚的に担い、存在することを指します。

 

これらをまとめて、『ハイデガー「存在と時間」入門』*2では次のように述べられています。長いですが引用します。

 

現存在は先駆的覚悟において、自分自身の可能性に開かれるという仕方で、おのれをそうした可能性へと差し向ける(将来)。そしてそうしたおのれの可能性への到来はそれ自身、おのれの「どうであったか」、つまりおのれが世界のうちに被投されているという事実の引き受けを意味する(既在)。この将来と既在は全体として、現存在が他ならぬ自分自身の可能性を担う事態を指している。そしてこのような自分自身の可能性とは、現存在がその時々において関わっている存在者に適切な仕方で応答する可能性を意味するので、そこでは現存在が存在者を隠蔽することなく現前させているのである(現在)。(『ハイデガー「存在と時間」入門』より)

 

このように先駆的覚悟性を可能にするのは時間の概念だ!ということでタイトル通り『存在と時間』の関係性を導いています。ハイデガーのいう”存在”を可能にするのは時間、というわけです。それは言われればその通りかなと思います。上述した通り時間の概念がなければ先駆も、可能性の引き受けもできないわけですから。

 

ただ、結局のところ、これらは今までの話である「先駆的覚悟性が本来的な生き方だよー」というのをまとめ直したに過ぎないようにみえます。そこからさらに時間の概念を広げようとした結果、うまくいかずに『存在と時間』は未完に終わってしまうわけです。

 

未完のままに終わった『存在と時間』

なぜ、未完に終わったのか。『ハイデガー「存在と時間」入門』*2 の終盤で詳しく分析されています。

 

ものすごくざっくり言えば、先ほどの「将来」「既在」「現在」が統一されている状況を考えると、最終的にはあれだけ『存在と時間』の前半部分で嫌っていた主観・主体を想定せざるを得ないということなようです。

 

「存在」とは何か、ということを考えたときに、通常は「今」目の前にあるものを考えますが、そうではなく巡り巡って「将来」「既在」「現在」のすべてが統一された地平をハイデガーは想定したわけですが、そうなるとその統一されたものを見る側として主観や主体を思わず考えてしまいます。

 

前半部分では、デカルトとの違いを強調し、いかに独立した主観が誤っているかを説いてきたわけですが、時間性の概念を持ち込んだところ、そこがうまくいかなくなってしまったわけです。

 

1番最初の記事で述べたように、継ぎ足し継ぎ足しで作られた著作なので、もはや行き詰ったらどうしようもなかったのだろうなと思いますね。

 

完結しなかったにせよ、主観・客観にとらわれない現存在という概念を作り上げ来たことや、本来的な生き方という見方、死の本質直観など興味深い概念は今まで紹介してきたように多々あり、それがこの本の魅力だということは読んでいて伝わってきました。

 

あまりにも難解すぎて数%くらいしか理解できていないような気しかしませんが、ひとまずこれで読み終えたことにします。こういった本に一生をかけて研究していく人々は本当によくそこまでのめり込めるなと心から思いますね、、、。

 

「とりあえず読み始めたからなんか書かないと!」という思いで無理やり書いてきたので、理解不能な文が多々あったと思います。記事を読まれた稀有な方々には申し訳ありません。

 

またやる気がわいたらこういった本読んでいきます。

しばらくは無理そうですけど(汗

 

参考文献:

*1『ハイデガー入門』

 

*2『ハイデガー「存在と時間」入門』轟孝夫著

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