マルティン・ハイデガーの『存在と時間』に入門してみる⑥

久しく離れていましたが、そろそろとりあえず読み終えていきたいハイデガーの話をまた書いていきます。

 

前回までは現存在について重要な部分を成す気遣いと内存在が「気分」「了解」「語り」で構成され、さらにそれが本来的なものと非本来的なものに分けられることを書きました。

 

そこで本来的かつ全体的な現存在を捉えるためにはどうすればいいのか。そこで出てくるのが、今回の「死」と「不安」の話です。ハイデガーの「死」の考察は有名なのでここだけみても面白いかもしれません。

 

目次:

 

 

前回までの記事はこちら↓

マルティン・ハイデガーの『存在と時間』に入門してみる⑤

マルティン・ハイデガーの『存在と時間』に入門してみる④

マルティン・ハイデガーの『存在と時間』に入門してみる③

マルティン・ハイデガーの『存在と時間』に入門してみる②

マルティン・ハイデガーの『存在と時間』に入門してみる①

 

 

ハイデガーの「死」の捉え方

ハイデガーの哲学は「死の哲学」とも言われるくらい、このあたりの点は有名なところだと思います。まず、死の本質的な特徴を以下のように説明しています。

すなわち、現存在の終末としての死とは、現存在のひとごとでない、係累のない、確実な、しかもそれなりに無規定な、追い越すことのできない可能性である。(『存在と時間 下』p.76-77)

 

①ひとごとでない、②係累のない、③確実、④無規定、⑤追い越すことができない、と5つの特徴が出て来たのでそれぞれ簡単にみてみます。

 

①ひとごとでない

死の交換不能性とも言えますが、死ぬという行為は代わりに行うことはできません。「何かの任務のために」誰かの身代わりになって死ぬということはできても、その人の死はまたいつかやってくるわけで、代わりに受け入れるわけではありません。

 

②係累のない

今まで「気遣い」という形で周りと関連をもってきた現存在ですが、死ぬことでその関連は全て解かれてしまいます。

 

③確実

言うまでもなくどんな人間も確実にいつかは死ぬわけですが、この確実性も本当には理解されていないことをハイデガーは指摘します。「いつかは死ぬ」と言うけれど、それがいつでも差し迫っていることを分かっていないと主張します。

 

④無規定性

死は確実に起きるものでありながら、いつ起きるかは基本的にわかりません。これは医療に従事していると確かに感じますが、若いほどその可能性は低いとはいっても、予想だにしないタイミングで死がやってくることはあります。

 

⑤追い越すことができない

気遣いという形で自分に対して、色々選択をしていける可能性を常にもつ現存在ですが、死より先には可能性はありません。これ以上は追い越すことができないわけです。

 

我々が日常的に死を扱う際は、この死の本質からは逃げてしまっていることを述べます。

 

例えば、死は無規定で確実なものですが、「人はいつかは死ぬ」と言いながら「今日すぐにではないだろう」と思っているわけです。また、死は係累のないもので追い越すことができないものですが、死者をまるで今もどこかで生きているかのように扱ってみたり(きっと〜はあの世で〜しているんだろう)しています。

 

これは耐え難い死の重みに対して自分たちに鎮静をかけているものだと指摘します。

 

死に直面した時に、出てくる「気分」が「不安」であり、普段はこの「不安」から逃亡することで非本来的な生き方をしています。ハイデガーはこの「不安」という気分に重点を置いて説明しているので次は「不安」がなぜ重要なのかみてみます。

 

なぜ「不安」を重要視するのか

気分というのは前回の記事で挙げたようなハイデガー独特の術語です。

マルティン・ハイデガーの『存在と時間』に入門してみる⑤ – 脳内ライブラリアン

 

自然発生してくるようなもので、現象学的には底板であり、これ以上元には辿れない現象でした。また、気分には被投性があり、自分ではどうにもできないもの、とされていました。

 

では、不安はどのような気分なのでしょうか。ここで、ハイデガーは「恐れ」と「不安」を対比して例に出し、説明しています。

 

まず「恐れ」は対象があるもので、何かに対する恐れであるため、世界内存在の存在者のような具体的なものに対する気分です。例えば、川にいって溺れるのが怖い、だとか親に怒られるのが怖いだとかですね。

 

これに対して「不安」は対象がないことが特徴です。先程挙げた「死」がまさにそうですが、死は無規定なものでいつどのようにくるか分からず、またその後は何の可能性も無くなってしまうので、恐れのように対象がありません。

 

では何がそう不安なのかというとハイデガーは次のように述べています。

 

不安がそれを案じて不安を覚えるところのものは、世界=内=存在そのものである。不安のなかでは、環境的な用に具わっているものごと、一般に内世界的存在者は、崩れ落ちてしまう。「世界」も、またほかの人びとの共同現存在も、もはやなにものも提供することができなくなる。こうして不安は頽落しつつ「世界」と公開的な既成解釈からおのれを了解する可能性を、現存在から奪い去る。(『存在と時間 上』p.395-396)

 

不安の対象は世界内存在全てであるということを端的に述べています。 

 

そのため、不安という気分において、人は「頽落しつつ、既成解釈からおのれを了解する可能性」(=非本来的な生き方)ができなくなると言っているわけです。これによって本来的な生き方が浮き彫りにされることを示しています。

 

本来的な生き方に結びつくが故に、不安をここまで重要視しているわけですね。

 

死の不安を受け入れるとどうなるか

上述したの特徴と、不安の重要性を合わせるとどうなるでしょうか。

 

まず、不安を頽落せず(誤魔化さず)受け入れることで、本来的な生き方へ結びつくことができます。さらに死は「追い越せない」という特徴をもつため、現存在の可能性としてはそれ以上に後の点はありません。

 

よって、死の不安を受け入れることでそれ以上先のない現存在全体について本来的な生き方ができるであろうことを述べています。

 

このことをハイデガーは「先駆」してあらかじめ死を捉えて、受け入れる「=覚悟する」と述べて、先駆的覚悟性という術語を作り出しています。

 

もう術語のあまりの多さに疲れてきますが、、、。この先駆的覚悟性は本来的な生き方をする上で重要なものですが、具体的にどうすればいいのかはあまり述べられていません。

 

これまでも割とそうでしたが、「先駆的覚悟性は〜ではない」という否定が多いのですが、肯定的な内容はあまり触れられません。先駆的覚悟性があることで、現存在は自己だけのことを考えるのでなく、むしろ自分だけのことは消滅して、周りの共存在のことを考えるようになるようです。

 

確かに、死期が間近にせまって死を受け入れた人にこうした傾向を見出すことができることもあると思います。

 

参考文献:

 

 

 

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。

CAPTCHA


日本語が含まれない投稿は無視されますのでご注意ください。(スパム対策)