引き続きアダム・スミスについて学んだことを。
前回記事はこちら
アダム・スミスはいつ生まれてどんな人だったか? – 脳内ライブラリアン
前回では社会的背景とアダム・スミスの生涯について簡単に書きました。
以前書いた通り“見えざる手”という言葉が市場主義のキーワードとして
使われている印象ですが、実際その前提には「道徳に基づいた秩序」があります。
そのためアダム・スミスの考え方はいわゆるマネーゲームや格差の拡大を
容認するものでは決してなく、現代の経済のあり方・社会のあり方にも
十二分に参考になるところがあると思います。
今回は道徳感情論の内容に触れていきます。
「道徳感情論」の目的
アダム・スミスが道徳哲学の教授時代に書いたのが
「道徳感情論」です。
この本の主たるメッセージは
「社会秩序をつくる人間の本性は何か」ということ。
どのような本性から社会が成り立っているかを知ることは
逆に一定の秩序を保つために、何を大切にすべきかということに繋がります。
「国富論」は”見えざる手”で有名なように自由市場を優先する
イメージが強く、最低限の秩序、フェアプレイ精神を
守ったうえで行われるべき、という背景が抜けてしまいがちです。
そこを知るためにも「道徳感情論」の論理の流れが役に立ちます。
「同感」の能力
アダム・スミスは人間の「同感」の能力が秩序を形成する大本と考えました。
誰かが喜んでいたり、怒っていたり、悲しんでいたり
そういったときに人は相手の気持ちを想像し、同じ感情をもつことができます。
面白いことに近年になってミラーニューロンといった相手を模倣するメカニズムが
体の中に備わっていることが科学的に明らかになったわけですが
これをすでに200年以上前にメカニズムはどうあれ、見抜いていたわけです。
今回主に参考にした「『道徳感情論』と『国富論』の世界」の
あとがきにも同様の指摘がされていました。
この同感(共感と言い換えてもいいと思いますが)の
能力を用いて人はある人の行為・感情を「観察」します。
図にするとこんな感じです。
(『道徳感情論』と『国富論』の世界 図1-1より引用)
また自分の行為・感情も他人から観察されます。
(『道徳感情論』と『国富論』の世界 図1-2より引用)
ここで、その行為・感情を相手の立場に立って
考えてみたときに妥当だと思えば「是認」、異なると思えば「否認」します。
是認であれば観察者、当事者ともに快の感情が得られますし
否認であれば観察者、当事者ともに不快の感情が得られます。
例えば、身内が亡くなって悲しんでいる人がいた、とするときに
「悲しいんだろうなあ」とその思いを妥当と考え
その気持ちを当事者に伝えることで、共感により少し気持ちが和らぎます。
逆に「なんで悲しんでるの?元気出したら」なんていう人はいませんが
そんなことしたら確実に不快です。
言っている側も、もし本気でそういっているのだとしたら
不快なのでしょう。
こうした経験を繰り返すうちに
全ての人が是認する行為や感情というものがない、ということに気づきます。
そこで、他人のみの判断では
すべての人を納得させる行為や感情はないため
そうした一方的な判断から身を守るために
「自分と特別な関係をもたない公平な観察者」を自分の頭の中に想定し
その基準において是認されることを考えるようになります。
これが「胸中の公平な観察者」という概念です。
「胸中の公平な観察者」
これは自分が所属する社会において
経験を積み重ねることによって作り出されていく、とされています。
ただこの「胸中の公平な観察者」と世間一般の評価に
ずれが生じることがあります。
例えば自分としては決して何かミスをしたわけではないのに
罰せられてしまった場合。
きちんとルールを守ったにも関わらず事故で人を傷つけてしまった場合は
もっとずさんなことをしても事故がなかった人と違って
どうしても罰せられる場合はあります。
例えば交通事故を起こしてしまったときに
寝不足もなくしっかりと運転していても起こしてしまうときはあり得ますが
普段からスマホみながら運転しているような人が罰せられていないにも
関わらず、そうした過失は「世間」から罰せられてしまう。
これは「胸中の公平な観察者」によれば、誰もみていなかったとしても
スマホを普段からみながら運転する、というのは明らかに誤っています。
これが「胸中の公平な観察者」と「世間」とのずれです。
この不規則性と呼ばれる点についてはまた次回にします。
参考文献はこちらです。
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